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詩人論

 結局のところ私が詩を好きなのは、詩は責任を負わなくてよい、という点があることを認めざるを得ない。30年近く生きてきて、最近そう考えるようになった。責任を負うようなことは散文で表現すれば良いわけで、わざわざ詩という形態をとる必要がない。私の詩に対するスタンスは、美しい言葉の羅列をここに置いておくので、ご自由に味わってください、というもの。これは谷川俊太郎が言っていたことだ。一方で、思想を通過したインテリ詩人の中には、詩にこそ責任を負うべきである、という考えの人もいるだろう。そういう人達はきっとパウル・ツェランが好きに違いない。その世界はその世界で興味深いが、「言葉の羅列」に社会的責任を負わせたくない。もし世間が、詩とは社会的責任を伴うものである、と見なすのなら、私の興味は「詩」ではなく、「言葉の羅列」にある、と言っても良い。このようなスタンスだからこそ、私は吉増剛造が好きなのであり、谷川俊太郎が好きなのだ。吉増剛造の、特に最近のごちゃごちゃした詩などはとても社会的責任を負っているとは思えない。そのような、社会的責任を捨てて「言葉の羅列」の可能性を追求しているところに憧れる。
 「言葉の羅列」の美しさというものは確かに存在する。例えば谷川俊太郎の『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』。これは詩のタイトルだが、なんと魅力的な「言葉の羅列」だろう。なんだかわからないけれど魅力的。回りくどい表現も含めて。しかもおそらく谷川俊太郎は、本当に「夜中に台所で話しかけたかった」わけではないと思う。美しい「言葉の羅列」になるように試行錯誤したのだろう。果たして「台所」でいいのだろうか、「玄関」の方が良くないか、はたまた「コンビニ」ではどうか、とか。当時コンビニなんてないか。

 私が学生時代、詩に興味を持ったころ、父親の小さな本棚から『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』が出てきたときは、やっばり父親の血を引いているのだなあ、と思った。居心地の悪い家に帰らずパチンコばっかり行っていた父親の。工学部出身の父親の。

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